琵琶湖は、昔道路や鉄道の役割を果たしていたって本当?

治水・利水を目的に築造された瀬田川の洗堰は、100歳を迎えました。
2代目となる瀬田川洗堰は、今日も琵琶湖・淀川流域の暮らしを守るために、瀬田川の流量を調節し、琵琶湖の水位をコントロールしています。
今号のビワズ通信では、湖水位との関わりも深く、満々と水を湛える琵琶湖の、もうひとつの恵みともいえる湖上交通に注目し、人々の暮らしを支え、近江に大きな繁栄をもたらした舟運の歴史をたどります。

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湖国、近江において、舟は古くから人々の暮らしに欠かすことのできない移動手段であり、湖上交通の発達は京都や大阪のみならず、琵琶湖周辺にも豊かな物資や情報、文化を届けました。今回は、大津市歴史博物館を訪ね、学芸員の和田光生さんに、琵琶湖の湖上交通についてうかがいました。

和田光生さん
大津市歴史博物館 学芸員の和田光生さん

農業とも密接に関わった舟運

「琵琶湖の舟運について語る時、近世の湖上交通の主役であった丸子船の陰となり、見落とされがちな舟運に田舟の活用があります。湖岸の農村では、古くから水路が発達し、田へ農作業に出る時も、日常の足としても田舟が頻繁に利用され、今日のマイカー同様、各戸には田舟が普及していました。とくに低湿地帯では、水田と湖がつながっていたため、田舟に乗って直接、内湖や外湖に出ていくことも可能でした。農家の人々は当時、貴重だった有機肥料のほしか(干したニシンなど)の代わりに、湖で刈った藻や湖底の泥をすくい、米づくりに活用しました。幕末の琵琶湖のようすを描いたスケッチにも、丸子船の脇で、田舟に乗って長い2本の竹を使い、藻を刈る農民の姿が見られます」。

北国と都を結ぶ水運ルートの確立

「平安時代に編さんされた『延喜式』という制度集の中に、日本各地から京の都までの運送賃が記されています。それによると越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡などからの荷物は、日本海を敦賀の港まで運ばれ、ここで一旦、陸揚げされると山を越え、琵琶湖の最北にあたる塩津へ行き、塩津の港からは船で大津へと渡り、さらに陸路を都へと運ばれています。また、若狭の国からは琵琶湖西岸の勝野津から大津へと向かうルートもありました。つまり、琵琶湖は北国と都を結ぶきわめて重要な幹線であり、湖上の最短ルートを航行できるため、現在の高速道路のような役割を果たしていたのです。以後、湖上交通は長い期間にわたって活況を呈し、それぞれの港は繁栄を続けることとなります」。

スケッチした作品
琵琶湖眺望真景図 大津市歴史博物館蔵
嘉永2年(1855) 南湖の湖上から見渡した様子を広瀬柏園がスケッチした作品
(一部)。右手前に2艘の田舟が浮かぶ。

大津市歴史博物館図録
大津市歴史博物館図録
琵琶湖の舟 ─丸子船から蒸気船へ─ より

このような湖上交通を支えた運搬船の代表に丸子船があります。舳先は板を立てて並べ、側面には丸太を半分にして取り付けた独特の構造を持ち、琵琶湖の舟運が最盛期を迎えた江戸時代には1300艘を超える丸子船が湖を往来していました。しかし、なぜ琵琶湖の船だけが、特徴ある丸子船のような形態となったのかは現在も大きな謎です。

復元模型
琵琶湖特有の構造をもち、湖上交通の主役でもあった丸子船
(復元模型・大津市歴史博物館蔵)

時代の流れを映す湖上交通の歩み

平安時代以降、各地の年貢米などが湖上交通によって都に運ばれるようになりました。それにともない、湖上を運ばれる物資にも陸路同様に※関銭が徴収されるようになり、湖岸には多くの関所が設けられました。いくつかの関所は社寺の領地に置かれ、関銭は堂舎の造営費にあてられたといわれています。また、戦国時代には湖上交通は舟運だけでなく、軍事的な要素を強め、天下統一をめざす各武将たちが水運力に着目。そのなかでも織田信長は多くの船を持つ各浦を支配下に置きました。さらに、大坂城を築いた豊臣秀吉は、北国から琵琶湖、大津、伏見、大坂のルートを重視し、近くの港から大津港に船を集め、「大津百艘船」とよぶ船持仲間を設け、湖上交通を掌握しました。

日本海と琵琶湖を結ぶ壮大な運河計画

湖上交通は、古来から物流(とくに重量の大きな穀物や資材)にとって、極めて重要な役割を果たしてきました。さらに、敦賀湾と琵琶湖を結べば積み荷を直接、大津港へ輸送し、京都へ運べることから平安末期に平清盛によって運河の開削が計画されました。また、江戸時代に西廻り航路が開設されてからも、本州を大きく迂回することなく、日本海と大阪湾を結べることから河村瑞賢や、琵琶湖疏水を完成させた田辺朔郎などによって壮大な運河計画が幾度となく繰り返されましたが、残念ながら現在まで事業の完成には至っておりません。このように時代を超えて、さまざまな運河計画が立案されたことは、まさに琵琶湖の舟運の重要性を物語る証といえるでしょう。

ルート
敦賀湾〜琵琶湖はわずか25km。運河開削により洪水被害を防ぎ、物資輸送も容易になると考えられた

構想図
田辺朔郎の構想を受け継ぎ、昭和24年に発表されたハシケ(艀)鉄道計画。敦賀〜塩津間に電気鉄道を敷設し、インクライン輸送として貨物ハシケを積み荷ごと台車に乗せて運び、さらに琵琶湖疏水も利用し、日本海と大阪湾を結ぼうとした構想。

人や物を運ぶ時代から観光の時代へ

明治に入ると湖上交通は大きく様変わりします。明治2年(1869)に、琵琶湖に初めて蒸気船「一番丸」が就航し、これを契機に数多くの蒸気船が建造され、明治15年(1882)には鉄道の未開通区間を船で結ぶ、長浜・大津間の鉄道連絡船も誕生します。しかし、明治22年(1889)に東海道線が全線開通すると琵琶湖の貨客輸送は、鉄道によって大きな打撃を受け、中世から華やかな歴史を歩んできた湖上交通は、時代に即した新たな使命を探ることとなります。再び湖上交通が脚光を浴びるきっかけとなったのは明治末から大正、昭和にかけて起こった観光ブームの到来でした。私鉄網の充実により琵琶湖は京阪神から手軽に行ける観光地として注目を集め、琵琶湖の美しい景観を活かした観光船の時代を迎えます。

昭和初期のポスター
昭和初期のポスター
琵琶湖汽船株式会社蔵

今日も琵琶湖には、大型観光船や遊覧船が就航し、手軽に湖上交通を体験することができます。

しかし、その一方で暮らしと密接に結びついた舟運は、漁船などを除いては、ほとんど見ることができなくなりました。

船上から人と湖の新たな関係を考える

和田学芸員は、舟運と人の暮らしについて次のように語りました。

「琵琶湖周辺の縄文遺跡からは丸木船が発掘されていますが、古代の人々が小舟に乗って湖に漕ぎ出したことは、水との関わりの大きな一歩でした。そして、約4000年の歳月を経た現在、人は次第に船から遠ざかりつつあります。かつて昭和40年代の初め頃まで、湖岸に暮らす人々にとって田舟は暮らしに欠かせない道具であり、子どもたちには田舟で湖に出ることが大きな楽しみでした。しかし、船を仲立ちにして湖と接する機会が少なくなった今、琵琶湖という眼前の自然と、今後どのようにつき合っていくのか、新しい次元の課題が、私たちに提示されようとしています」。

現在、湖上交通は琵琶湖の自然と身近に向き合う手段として注目されています。滋賀県内の小学生はフローティングスクールを通して大いなる湖の自然を学び、アクア琵琶でも毎年、「琵琶湖たいけん教室」を開催しています。船上から琵琶湖を見つめ、風や水の匂いを感じることは、人と琵琶湖の新たな関係を築く上で、大きな役割を果たすことでしょう。

瀬田川リバークルーズ

昔懐かしい外輪汽船を復元した「一番丸」が、春の瀬田川を航行します。石山寺港から瀬田唐橋港、アクア琵琶港を結ぶコースをゆったりと往き、船内では瀬田川にまつわる歴史や文化についてご案内します。

お問い合わせ先
大津市石山寺観光案内所
電話077-537-1105

琵琶湖浸水想定区域図

琵琶湖たいけん教室の様子
琵琶湖をめぐり、水の大切さを学ぶ
「親と子の琵琶湖たいけん教室」

感動こそ環境保全活動の原動力

水と人今回は、滋賀県高島市今津町を拠点に、「環境を守る今津の会」や「琵琶湖と田んぼを結ぶ連絡協議会」をはじめ、約6団体の会長や顧問として環境保全に取り組む松見茂さんに、ご登場いただきました。

松見 茂さん
松見 茂(まつみ・しげる)さん

「私は、琵琶湖岸で育ったため、子供の頃は、朝は琵琶湖で顔を洗い、昼は学校から戻ると琵琶湖で遊び、風呂の水を汲み上げ、家の手伝いをするという毎日を過ごしました。教職に就いてから自然科学に興味を持ち、研究するようになったのも、子供時代のそんな体験を通して育まれた琵琶湖への想いが原点となっているといえます」。

活動の一環として一般市民や子供を対象にした自然観察会を開いている松見さんは、参加者の反応に大きな手応えを感じています。

魚道を勢いよく遡上するナマズ

「参加された方が、今津にこんなに美しい場所があったのか、こんな素晴らしい自然が残っていたのか、と子供のように顔を輝かすのを見ていると言葉にならない喜びが沸き上がってきます。自然に感動できる人は、きっと自然を守ってくれる。それが私の持論です。まず大人が変わってくれれば、子供たちは、その五感で自然の仕組みを感じ取り、自ずと環境への意識を芽生えさせてくれるはずです」。

”一生感動、一生青春“という言葉に共感を抱く松見さんは、79歳を迎える今日も、野山に出て自然に触れる度に、新たな感動を覚えます。感動こそが人に活力を与え、環境保全の原動力であるという想いのもと、松見さんの活動は、今後もさらに精力的に続けられることでしょう。


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