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福井の川物語

九頭竜川の名の由来

九頭竜川の名の由来

九頭竜川の名の由来には、いろいろな説があります。

一つは寛平元年(889年)6月、平泉寺の白山権現が衆徒の前に示現され、その尊像を川に浮かばせたところ、一身九頭の竜が現れ、尊像を捧げいただき流れに下って黒竜大名神社の対岸に着かれました。それ以降、この川を九頭竜川と名付けられました。(「越前名蹟考」)。

二つ目は、承平の頃(931年頃)国土を譲るために国の四隅、すなわち東は常奥の鹿島、西は安芸の厳島、南は紀伊の熊野、そして北は越前の崩山の黒竜大明神に四神が置かれました。この黒竜大明神の祭神は水体、黒竜王であり、その前を流れる川を「黒竜川」と呼ばれました(「国主記」)。

三つめは、荘園当時に記された「大乗院寺社雑事記」(1480年)の絵図に「崩川」という名前が見られ、「太平記」には黒竜神社を"クズレ明神"と記されています。このようなことから、時を経て九頭竜川と名付けられたのです。

日野川の名の由来

日野川の名の由来

天平神護2年(766年)、東大寺領道主絵図によると「味真川」となっています。

これは、浅水川の上流が味真野に始まるためといわれています。また、「万葉集」の大伴家持の長歌には、叔羅川(シラク川もしくはシラキ川)の名前が出てきているが、国府(現武生市)浜辺を流れる日野川を指しているといわれています。
中世には、「源平盛衰記」の寿永2年(1183年)の燧城(現南条郡今庄町)攻めの中で「日野河」と書かれており、日野山の西側を北流するために名付けられた伝えられています。
近世には、中上流を日野川、中下流を白鬼女川と区別しています(「越前地理便覧」1685年)。また、水源の夜叉ヶ池に祀る信露貴神社の由来から信露貴川としている古文書もみられます(「越藩拾遺録」)。

日野川という名前に統一されたのは明治初年成立の「越前三大河川沿革図」に、その名が見られますので、明治以降であろうといわれています。

足羽川の名の由来

足羽川の名の由来

天平神護2年(766年)、東大寺領道主荘開田絵図によると「生江川」となっています。
「大乗院寺社雑事記」の絵図には「北庄川」、「越前地理便覧」には上流を「池田川」、下流を「市波川」と記してあります。江戸時代、福井城下では、福井川もしくは大橋川とよばれていたようです。
「足羽川」と総称されるようになったのは、江戸時代中期以降であっただろうといわれています。

北川の名の由来

北川の名の由来

北川という名称が使われはじめたのは定かではないようですが、河口に位置する小浜城の北川を流れていたので、そのように呼ばれたらしいといわれています。
また、丹波方面より流れてくる南川に対して、北川と呼ばれるようになったともいわれています。