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3人の神様

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アメノヒボコ

アメノヒボコは、日本書紀や古事記、播磨風土記(はりまふどき)に登場する、神話の神様です。
2000年ほど前、朝鮮(ちょうせん)半島の新羅の王子・アメノヒボコが朝鮮(ちょうせん)半島からやってきて出石に住んでいました。円山川の周辺は泥(どろ)の海で、洪水のたびに村人の家や田畑がこわされていました。それを見ていたアメノヒボコは、泥水(どろみず)を海に流せないかと考えました。

「瀬戸と津居山の間にある岩山を切り開こう」

アメノヒボコは村人と協力してこの工事を行い、泥水(どろみず)を日本海に流す川をつくったのです。こうして泥海(どろうみ)は農業のできる土地に生まれ変わりました。
この伝説の主人公・アメノヒボコは「国づくりの神様」として出石神社にまつられています。
ほかに、アメノヒボコは、但馬牛をはじめて持ってきたり、いまの豊岡のかばん産業のもとの技術※を伝えたと言われています。もとの技術とは、円山川に生えていた「コリヤナギ」の茎(クキ)を編(あ)んでカゴをつくったり、コリヤナギをたくさん育てる方法です。とう器(須恵器(すえき))をつくったとも言われています。 。

※コリヤナギの茎(クキ)を編(あ)んでつくった但馬柳行李(たじまやなぎごうり)は、江戸時代に全国に知られるようになり、大正時代には世界でも有名になりました。しかし、昭和30年ころからだんだん、かばんづくりに変わりました。

両手をあげている人がアメノヒボコ」(出石神社にあるかけじくの絵)

両手をあげている人がアメノヒボコ」(出石神社にあるかけじくの絵)

沖野忠雄(おきのただお)

沖野忠雄は江戸時代の最後(1854年)に大磯で生まれ、元治元年(1864)と慶応2年(1866)と明治3年(1870)の3回の大洪水を経験しました。学校の成績がとても良かったので、豊岡藩のお金で東京大学に進学し、その後、国のお金でフランスに渡って土木工学を学びました。日本に帰ってから内務省(いまの国土交通省)で働きました。新しい技術で日本国中のあばれ川や港づくりの大工事を指導しました。とくに大阪港や淀川の工事は有名です。「治水の神様」と呼ばれ、尊敬されています。
円山川第一期改修工事のときは退職していましたが、重要なアドバイスをしました。
沖野忠雄(おきのただお)

赤木正雄(あかぎまさお)

明治20年(1887)に豊岡市引野で生まれ、東京大学を卒業してから、内務省(いまの国土交通省)で働きました。内務省で働いているとき、ウィーンの大学で学びました。川を安全にするためには、山をなおさなくてはならないと、全国で山と川の工事を指導しました。
工事は、山がくずれないように木を植えたり、土砂が雨水といっしょに流れでないようにする技術を使いました。これらの技術を「砂防(さぼう)」と言います。赤木の砂防工事は全国で役にたち、世界でも有名になりました。「砂防の神様」と尊敬されています。「砂防」という日本語は、世界中で日本語の言い方のまま「SABOU」と使われています。
退職して、9年間国会議員としてはたらいたあともずっと、全国の砂防をアドバイスしました。
また、円山川第一期改修のために国がお金をだしてくれるよう、政治家にお願いしたり、地元がもっとがんばるようはたらきかけました。
昭和23年(1948)からはじまった「上流改修工事」を兵庫県で担当してもらうよう、アドバイスしました。
赤木正雄(あかぎまさお)
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