円山川は大むかし海でした。
2万年前に地球の氷河がとけて、海の水が陸地へと入りこんでいきました。
その後、さらに地球全体があたたかくなったので、もっと奥まで海の水が入りこみました。
古豊岡湾
※平成12年(2000)にぜんぶ開通しました。
豊岡盆地が泥海(どろうみ)だったころ、人々は毎年のように洪水に苦しめられ、家や田畑が流されたり水につかりました。その泥水(どろみず)を海に流す大工事のリーダーだったのがアメノヒボコだという伝説があります。
円山川で大きな工事をしたのは、江戸時代のはじめです。
六地蔵地区に水路をつくり、円山川の水がこの水路にも流れるようにしました。
円山川に“半島”のように出ていたのが六地蔵地区です。この対岸を六法平野といい、むかしからいつも水害におそわれるところでした。円山川の水が“半島”にぶつかるうえに、六方川の水も流れてくるので、水の力が大きくなるからです。しかし、六法平野を守るための堤防(ていぼう)をつくる技術はありませんでした。
但馬豊岡藩の一代目の殿様は、慶長2年(1598年)、“半島”のつけ根に長さ約200mはば約10mの水路をつくり、円山川の水がここにも流れるようにしました。しかし、いつのまにか水路が土でうまってしまったので、二代目の殿様は、この水路の幅を数十mに広げて底もほり、堀川(ほりかわ)と名付けました。
天保9年(1838)但馬国大絵図
安土桃山時代から江戸時代までの400年間で、水害は53回書き残されています。しかし、書き残されてないだけで、本当は水害のない年はなかったと言われています。
※安土桃山時代よりもっとむかしも水害はありましたが、記録がないのでわからないのです。
しかし、工事のほとんどは、くずれた堤防(ていぼう)をなおすぐらいしかできませんでした。いまのように機械がなくすべて手作業なので、大きな工事はできません。円山川全体を考えて対策することもありませんでした。
明治時代も、4年(1871)、21年(1888)、40年(1907)の大水害をはじめ、水害はあいかわらず、ほぼ毎年おきました。
とくに40年8月の大水害では円山川の堤防(ていぼう)がくずれ、円山川や円山川に合流する小さな川の周辺で、建物29,445棟がたおれたりこわされたりしました。いまよりもずっと人口が少なかったから、ほとんどの建物が水害にあったと言えます。この40年8月は日本列島に4つも台風がきて、全国の川で大水害がおきました。
大正元年(1912)9月に台風で死傷者29人、家の被害(ひがい)610戸の大水害がおきました。7年(1918)9月の台風で出石では、堤防(ていぼう)がくずれ、34人の死傷者がでました。10年(1921)にも大洪水がおこり、最高約6m(20尺)の高さまで水につかったところもありました。
「大きな工事をして、水害のない円山川にしてほしい」
人々は長く望んできましたが、大きな工事をするためには、とてもたくさんのお金がかかります。県や地元のお金では足りません。住民みんなが力を合わせて国にお願いすることにしました。
住民みんなで同盟会をつくり、政府や貴族院、衆議院、県議会にたのみに行きました。しかし、国は全国の大きな川で大工事を行わねばならなかったので、円山川の工事になかなか手がまわりませんでした。
けっきょく、国と県が当時のお金で250万円ずつだしあって500万円の大工事をすることに決まったのは、それから11年目の大正8年でした。
はじめにどんな工事が必要かを調べました。大正11年に国が大工事をはじめました。
大工事は、曲がりくねった円山川と出石川をまっすぐにすることでした。「大磯の大曲(おおぞのおおまがり)」と言われたクネクネしたところを、まっすぐではばの広い川につくり変えました。
この大工事は計画づくりから18年かかって、昭和13年に完成しました。この大工事を「円山川第一期改修工事」と呼んでいます。
この大工事ができるように、豊岡出身の「治水の神様」沖野忠雄(おきのただお)と「砂防の神様」赤木正雄(あかぎまさお)が協力してくれました。
川から土砂を運び出すためのトロッコ
この大工事を記念して、いまの円山大橋西側の塩津地区に「円山川改修之碑(まるやまがわかいしゅうのひ)」がたてられました。その奥には「砂防の神様」と呼ばれた、豊岡出身の赤木正雄(あかぎまさお)の銅像もあります。
水害ではありませんが、大正14年(1925)5月23日に北但大震災(ほくたんだいしんさい)がおきました。マグニチュード7の大地震で多くの家がくずれ、さらに城崎や豊岡の北部では火事がおきて丸一日以上まちが燃えたのです。死者は城崎で272人、豊岡などとあわせると408人でした。城崎のまちは、ほとんどなくなってしまいました。
工事中の「円山川第一期改修工事」でも、土砂運ぱん中の機関車がたおれるなど、大きな被害(ひがい)にあいました。
北但大震災で線路からはずれてたおれた土砂運ぱん用の機関車
さかんに燃え広がるまちから豊岡小学校に逃げてきたひなん者
城崎駅前
燃えひろがる豊岡のまち
ひなんした人々
豊岡駅前
小学校がなくなったため、野外で授業が行われた(豊岡小学校)
大工事は18年かかって、昭和13年に完成しました。とちゅうに北但大震災や関東大震災があったので、なかなか工事は進みませんでした。それに、水害のために工事を中止したことも、たびたびありました。
台風や大雨は、工事中でも関係なくやってきました。
昭和5年(1930)8月、大雨で出石川の堤防がくずれ、まちは約4mの高さまで水につかりました。出石川では6つの橋が流されました。
昭和9年(1934)9月、室戸台風で大洪水になりました。この台風はとても大きな台風で、円山川の流域※に大雨をふらしました。城崎の被害(ひがい)が大きく、こわされたりたおれたりした家は200戸、水につかった家は3000戸でした。但馬ぜんたいでは、水につかった家が1 万5000戸、たおれたり流されたりした家が1000戸、死者・重軽傷者は362 人でした。流されたりうまってしまった田畑は、城崎を中心に2,700ha もありました。
昭和9年(1954)の室戸台風では、上流の日高、八鹿、養父などで川の水があふれ、家や田畑の泥水(どろみず)はなかなか引きませんでした。下流の大工事はほぼ完成していて、そこより上流で大きな被害(ひがい)になりました。
「上流も工事をしてほしい」
上流には堤防もありませんでした。上流の人たちは、大工事をしてほしいと国に頼みました。しかし、太平洋戦争(第二次世界大戦)中だったので、国はそれどころではありませんでした。
戦争が終わってすぐ、「砂防の神様」赤木正雄のアドバイスで、県に工事をたのみました。当時、多くの川を担当する国よりも、地元の兵庫県の方が早く工事をしてくれたからです。
こうして、昭和23年(1948)に兵庫県が「上流改修工事」をはじめました。
水につかった元町通
水につかった豊岡病院
舟でひなんする六方地区の人々
流された堀川橋
円山川では「第一期改修工事」のあとも、水害はおきました。<安全に流れる水の量>よりも多い水が円山川に集まってきたからです。
昭和13年(1938)、17年(1942)につづき、25年(1950)にはジェーン台風におそわれ、円山川流域※で500戸の家が水につかりました。28年には台風2号で死者がでました。
「第一期改修工事」のあとは、兵庫県が円山川を担当して、上流の大工事を進めていました。
上流の大工事は、<安全に流れる水の量>を下流よりも大きくしていたので、上流から流れてきた水は下流であふれてしまいます。下流の<安全に流れる水の量>を、上流から流れてくる水の量と、途中の中小河川から流れこむ水の量を足した量にふやさなければ、下流が危険です。
「なんとか、二次改修(大工事第二だん)をしてほしい」
下流の人々は国にたのみました。「砂防の神様」赤木正雄(あかぎまさお)も協力して、昭和31年(1956)に、国が第二だんの下流大工事をすることが決まりました。この大工事を「第二期改修工事」と呼びます。
人々は第二期改修工事が決まったことをすごく喜び、花火を上げたり豊岡小学校でお祝いの会を行いました。
豊岡小学校のグラウンドに書かれた「祝円山川」の人文字
円山川下流の第二期改修工事を再び担当することになった国は、「第一期改修」よりも<安全に流れる水の量>を1000m3/秒ふやして、3800mm3/秒をめざすことにしました。大工事は堤防づくりが中心でした。 大工事が決まった翌年に国は新しく豊岡工事事務所をつくり、工事をどんどん進めることができるようにしました。(それまでは、小さな出張所でした)
「第二次改修工事」で堤防(ていぼう)工事をしていた昭和34年(1959)9月、伊勢湾台風(いせわんたいふう)で大水害がおきました。立野での円山川の水位は7.42mにもなり、いまの豊岡市内の約60%が水につかりました。
城崎・上山地区
浸水した大開通
円山川の堤防がくずれた日高・鶴岡地区
上鶴岡地区
豊岡郵便局の西側
流された赤崎橋
流された日置橋
ひなんする人々
奈佐川の堤防(ていぼう)がくずれたところ
水没した国の工事事務所
国は伊勢湾台風(いせわんたいふう)の次の年の昭和35年(1960)、円山川の<安全に流れる水の量>をもっとふやして工事をすることにしました。また、工事をする地域をもっと広げなければならないこともわかりました。
堤防(ていぼう)づくりのほかに、中小の川の水があふれないための工事もすることにしました。円山川の水位が中小の川より高くても、中小の川の水を強制的に円山川にくみだすよう、ポンプをつける工事です(内水対策)。これらの計画を「総体計画」といいます。
昭和36年(1961)に大きな第二室戸台風によって、円山川はまた大洪水になりました。
伊勢湾台風(いせわんたいふう)で修理を終えていた奈佐川の堤防(ていぼう)が、またもやくずれました。豊岡のまちなかの約1300戸が水びたしになりました。
奈佐川の被害(ひがい)がひどかったので、奈佐川も国が担当することになり、まず堤防(ていぼう)を高くする工事にとりかかりました。
昭和40年(1965)には9月に台風23・24号による水害がおきました。兵庫県全体で、死者20人、負傷者381人、床上まで水につかった家4,470戸、床下が水につかった家14,165戸で、円山川(但馬)では7800戸が水につかりました。
浸水した豊岡市立豊岡北小学校
堤防(ていぼう)がくずれた奈佐川の右岸
流された上郷橋
家が流された日高・羽尻地区
出石川右岸新田井堰付近での水防活動
出石中学校
「総体計画」をめざして工事をすすめていた昭和41年(1966)に、川についての法律(河川法)が変わりました。円山川は下流だけでなく、上流も国が担当することになりました。工事は昭和31年につくった「総体計画」をもとにしながら、工事メニューをふやしました。
下流の菊屋島や中ノ島の川のほり下げ工事や、出石川の堤防づくりなどの工事をふやしました。
これを「工事実施基本計画」と呼び、18年間この計画をもとに工事を進めました。
いろいろな工事がすすむと、円山川の下流の城崎では、水害がひどくなってきました。昭和40年(1965)と41年の台風で城崎は他の地域より大きな被害(ひがい)にあいました。
とくに40年の台風では、城崎で747戸の家(世帯)が水につかり、19カ所で川から水があふれ、田畑も流されてしまうなど、当時のお金で1億7000万円以上の被害(ひがい)にあいました。上流で川から水があふれなくなった分、多くの水が下流へ流れてきたからです。
城崎にはもともと堤防も、小さい川の水門もないので、すぐに川から水があふれました。そこで国は桃島地区に堤防をつくり、円山川にそそぐ大硲川に水門をつくるよう、計画しました。
しかし、この堤防ができると桃島地区の川側にある菊屋島地区の田畑が「川」の中になってしまい、人々が苦労してつくってきた田畑がなくなります。この田畑をもっている人たちは、堤防を円山川の川岸ギリギリのところにつくるよう、計画を変えて欲しいと大反対したので、なかなか工事ができませんでした。
けっきょく計画から8年後に、菊屋島地区の田畑を国が買い取ることになり、人々は田畑を手放しました。桃島の堤防づくりは昭和45年から2年でできました。
位置関係がわかる図
「工事実施基本計画」の工事を進めていても、やっぱり水害はおきました。昭和51年の台風17号、54年秋雨前線と台風20号、58年の台風10号、61年の大雨、62年の台風19号で、円山川から水があふれ、家々が水につかりました。
一本松団地
城崎の大谿川
六方川
堀川橋付近
くずれた堤防(ていぼう)の応急工事
ボートで救助される人々
ひなん所
出石・川原地区
水につかった出石中学校
堤防(ていぼう)がくずれた奈佐川
昭和時代、豊岡市や周辺では人口が増え、多くの家が建ちならぶようになりました。
そこで、もっと安全な円山川にするために、国は昭和63年に<安全に流れる水の量>をふやして、工事実施基本計画を見直しました。
この見直しを「工事実施基本計画改定」と呼びます。この見直しによって、ひのそ島を小さくしたり、堤防づくりをしました。
六方平野と出石川
上庄境
復旧作業
水に囲まれた出石中学校
なかなか水が引かない六法地区
日撫・六方
ボートで救助される一本松団地の人々
車の窓まで水につかった
10月に台風23号と秋雨前線がいっしょになって、はげしい雨がふりました。ふった雨の量は2日で275mmと、たいへん多かったです。円山川・出石川では多くのところで水があふれ、円山川の立野と出石川の鳥居で堤防(ていぼう)がそれぞれ約100メートルくずれました。くずれた堤防(ていぼう)から水が一気に流れだし、多くの家が流されました。豊岡市の立野では、円山川の水位が8.29mまで上がり、いままででいちばんの高さを記録しました。
約4000人がひなんした
台風翌日の豊岡駅前商店街
立野の堤防がくずれたところ
水につかったところは、大むかし古豊岡湾だったところでした
この大水害で、死者5人、けがをした人51人、水につかった家7944軒で、そのうち流されたりこわされた家は4283軒(そのうち完全にこわされた家は321軒)もありました。
もっと被害(ひがい)の写真を見る(別ウインドウ:国土交通省サイト)
ものすごくひどい大水害だったので、国は河川激甚災害対策特別緊急事業(ゲキトク事業)として、1000億円をかけて工事を行いました。川底をほりさげて深くしたり、排水ポンプをつけたり、堤防(ていぼう)をつくったり、たくさんの工事を大急ぎで行いました。
安全な川にするための法律が、平成9年に大きく変わりました。いままでの法律は、川を安全にするためと、川の水をみんなが利用するためのものでしたが、川の自然環境を大切にするという目的がふえました。円山川も、この法律にあわせて、平成20年に「円山川河川整備基本方針」という大きな目標をつくりました。
それまでは、川を担当する国や県など役所が、川の工事を決めていました。法律が変わって、住民の意見をもっと聞いて工事を決めるようになりました。そして、日本中の大きな川すべてで大きな目標をつくって、工事の計画をたてることになりました。この大きな目標を「河川整備基本方針」と呼びます。
円山川も、平成20年に「円山川水系河川整備基本方針」をつくりました。
円山川の大きな目標・基本方針は、<安全に流れる水の量>を、前よりもふやして5600m3/秒にして、川のとちゅうで800m3/秒の洪水をためます。
この大きな目標どおりの円山川にするには、ものすごく年月がかかります。小さな目標をつくって、一歩ずつ進めていくしかありません。
一歩ずつ進めていくために、国は平成25年に、約20年先までの目標と工事メニューをつくりました。いま、その計画(河川整備基本計画)どおりに、工事を行っています。
平成21年の台風9号で346ha、家77戸が水につかりました。雨の量はいままでで3番目に多かったですが、ゲキトク工事をしていたので、水位が下流で60cm、立野で81cm、出石川・広原で71cm下がっていたので、被害(ひがい)はかなり少なかったです。
水につかった家は77戸、雨の量が同じだった第二室戸台風(1933戸)のたった4%に減りました。 25年の台風18・19号ではすごい大雨でしたが、水につかった面積が17.5ha、家は1戸でした。