淀川河川事務所

大正6年(1917年)大正大洪水 詳細解説

天気概況

大正6年9月26日の夜、大阪地方では気圧762.9mmHg(1017hPa)を示しましたが、27日からは次第に下降、28日夜半までに1.9mmHg(3hPa)、29日夜半までに6.1mmHg(8hPa)下がりました。さらに30日午前10時過ぎからは急激に下降し、午後11時には739.3mmHg(986hPa)の最低気圧に到達、その後は次第に上昇していきます。この気圧変化につれ、30日午後8時からは強風となり、午後11時頃には風速24.3m/sに達し、この烈風は10月1日午後10時頃まで続きました。そして雨は29日午前3時過ぎから降り始め、翌30日にもふり止まず、午後5時からは激しい強雨となりました。

淀川の洪水・決壊状況(1)

この大雨で淀川水系の各河川は急激に増水し、枚方標では9月30日夕方から翌1日早朝までの1時間に15cm~30cmずつ水位が上昇、このため右岸の支川芥川の堤防が決壊しました。さらにその水勢が淀川右岸の堤防裏に激突充満したため、続いて本川右岸の大塚堤防が約200?に渡って決壊し、氾濫した濁水は決壊口を広げながら右岸沿いに突進、神崎川の支川安威川、山田川合流点、味舌村(三島町)味舌の堤防を破り、2日には岸辺村(吹田市)大字南正尺堤防を始め、吹田町(市)竹の鼻堤防、宮島村(茨木市)野々宮堤防を破ります。また神崎川筋では、西成郡新庄村大字下新庄(吹田市)堤防、三島郡味生村大字一津屋地先(三島町)堤防が決壊しました。  
このほか上流部では京都府山崎村地内の淀川本提、納所村地内の桂川堤防、山科川堤防、淀川三栖堤防などが決壊、木津川筋では加茂で木津川本提、木津川町で左岸堤防、上狛で右岸堤防が切れ、さらに琵琶湖流域でも破堤氾濫が続出する大災害となりました。

洪水による被害

とどまるところを知らない水勢は次々に河川堤防を破り、大冠、高槻、芥川、三ケ牧、鳥飼、味生、宮島、富田、如是、溝咋、玉櫛、三宅、味舌などにわたる一面を湖と化しました。さらに水勢は玉川、安威川の堤防決壊を誘発し、吹田市をのみこんだ濁流が神崎川と合流して大阪市内に侵入しています。こうして淀川右岸の最下流部である稗島、大和田、福、川北、千船、西島までののべ24kmが水中に没し、明治18年の洪水に匹敵する被害をもたらしました。  
大阪府警察部がまとめた被害状況によると、三島郡の15カ町村、西成郡13カ町村(大塚から淀川沿線河口まで全部)と北河内の3個町村が水没、被害反別は5,871.3haにおよび、被災戸数は計15,358戸、被災人口は計65,000人にのぼっています。
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