淀川河川事務所

三栖閘門の歩み

三栖閘門の歩み(誕生)

着工からおよそ3年をかけて 1929年(昭和4)3月31日に完成。

建設目的

建設当時の説明図
陸上交通が発達していなかった江戸時代から明治時代には、京都~大阪間を結ぶ淀川舟運が重要な輸送手段となっていました。その流通拠点となっていた伏見港は「京都の玄関口」として繁栄していました。
1918年(大正7)に始まった淀川改修増補工事により、1922年(大正11)から着手した宇治川右岸の観月橋~三栖の間の築堤工事により、伏見港と宇治川との船の通航ができなくなりました。
このため、淀川へとつながる宇治川と濠川との間を船が通航できるよう、1929(昭和4)3月31日、宇治川と濠川との合流点に三栖閘門を建設しました。

建設中の三栖閘門

扉室下部

後扉室 1927年(昭和2)

後扉室と閘門 1928年(昭和3)

完成当時の三栖閘門と東高瀬川(宇治川から撮影)1929年(昭和4)

建設費用

三栖閘門の建設は、淀川改修増補工事のなかで最も大規模な工事であり、その費用は30万1,241円13銭と莫大な額でした。
(当時の大卒初任給が約70円)

構造

主要寸法
閘門延長 有効長83m、閘室長73m
閘門幅員 扉室8m、閘室11m
扉室構造
鉄筋鉄骨コンクリート 長さ:3.0m 幅:3.0m 高さ:16.6m
基礎 鉄筋コンクリート井筒
前扉室 長さ11.0m 幅9.0m 高さ4.0m
後扉室 長さ11.0m 幅11.0m 高さ4.0m
閘室構造
側壁 ラルゼン型鋼矢板 長さ7.0m、コンクリート張(勾配1:1.5)
底版 沈床、詰石(厚さ0.6m)
ゲート
形式 鋼製ストーニーゲート
前扉:9m×5m、W=23.6t
後扉:9m×9m、W=37.6t
巻上機 電動チェーン式(カウンターウエイト付)

三栖閘門の歩み(活況)

完成した年には、早くも2万隻以上もの船が閘門を通航。
在来の川船に変わり、客船として淀川を航行した蒸気船
三栖閘門が完成した当時は、日本と中国の関係が不安定な状況にあり、京都市近郊では軍需拡張を目的とした舟運機能の向上が求められていました。
このような時代背景を受けて、完成当初から石炭などを輸送する船が年間2万隻以上も三栖閘門を通航していました。
その後も、宇治川と濠川を結ぶ三栖閘門は京都~大阪間の輸送に重要な役割を果たし、経済・文化の発展に大きく貢献しました。

三栖閘門の歩み(衰退)

貨物船輸送の減少、天ヶ瀬ダムの完成を背景に、70年の歴史に幕を下ろす。

淀川舟運による貨物輸送は、陸上輸送が発達するとともに次第に減少し、1962年(昭和37)に淀川舟運はなくなります。さらに洪水を防ぐための宇治川改修や天ケ瀬ダムの完成により宇治川の水位が低下し、ついに三栖閘門はその役割を終えることとなりました。

昭和30年ごろの京阪電鉄 中書島駅

1964年(昭和39)に建設された天ヶ瀬ダム

三栖閘門の歩み(保全)

歴史遺産の保全と伏見の歴史・文化を未来に語り継ぐため、親水性あふれる空間として生まれ変わる。
三栖閘門周辺の完成イメージ図
国土交通省は、現在では役目を終えて老朽化した三栖閘門とその周辺を対象に、“地域の歴史文化の継承と淀川が誇る歴史遺産の保全をめざす”を基本理念として「三栖閘門維持管理計画」を定めました。
この計画に基づいて閘門の補修を行い、人びとが伏見の歴史・文化を語り継ぐための施設を多彩に配置し、憩いの水辺として整備しました。

閘室周辺の完成イメージ図

メインエントランスの完成イメージ図

旧操作室

旧操作盤

整備前の後扉室と閘門
(濠川側より望む)

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