淀川は昔から氾濫を繰り返し、そのたびに伏見周辺の住民は洪水に悩まされてきました。
伏見周辺の治水の歴史は、豊臣秀吉が伏見に城下町を築いた時から始まり、土木行政の近代化が急速にすすんだ明治時代には、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケらの指導による大規模な治水工事が次つぎに実施されました。
三栖樋門誕生の背景
安土桃山時代
伏見の繁栄と人びとの暮らしを守るため、治水事業に取り組む。
秀吉の指揮のもと、宇治川と巨椋池が分離され、宇治川左岸沿いに宇治堤、巨椋池上に太閤堤・大和街道などの堤防が築かれました。伏見以南の宇治川右岸沿いや桂川左岸沿いの築堤も進められましたが、その後も宇治川の氾濫を抑えることはできませんでした。
秀吉の指揮のもと、宇治川と巨椋池が分離され、宇治川左岸沿いに宇治堤、巨椋池上に太閤堤・大和街道などの堤防が築かれました。伏見以南の宇治川右岸沿いや桂川左岸沿いの築堤も進められましたが、その後も宇治川の氾濫を抑えることはできませんでした。
豊臣秀吉(1537-1598)
尾張国愛知郡中村(現・名古屋市中村区)の農家の生まれ。
足軽として織田信長につかえ、持ち前の才気を発揮して、1590年(天文18)に天下を統一します。
秀吉が築いた太閤堤
巨椋池の洪水対策として、秀吉は太閤堤・槇島堤・上島堤・下島堤・向島堤などの堤防を築きました。
太閤堤は奈良への街道の役割も併せ持っていました。
現在では、その跡を近鉄京都線が走っています。
秀吉の時代の巨椋池沿岸図
当時の巨椋池には、宇治川・桂川・木津川が流れ込んでいたため、大雨が降ると巨椋池の周辺は洪水に見舞われてしまいました。そこで、秀吉は巨椋池周辺に堤を築き宇治川の流れを変え、巨椋池の洪水を抑えるとともに、宇治川の流れを利用する伏見港を作りました。
明治時代
近代土木技術を駆使し、明治以降の治水事業の基礎を築く。
明治時代になると、淀川では近代的治水事業が実施されました。政府は外国人技師を招き、1874年(明治7)からオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケらの指導のもと、主に低水路を安定させて航路を確保する淀川修築工事が行われました。
明治時代になると、淀川では近代的治水事業が実施されました。政府は外国人技師を招き、1874年(明治7)からオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケらの指導のもと、主に低水路を安定させて航路を確保する淀川修築工事が行われました。
ヨハネス・デ・レーケ Johanes D' Rijke(1842-1913)
明治政府に招かれて、1873年(明治6)、31際の時に来日。以来、およそ30年に及ぶ滞在の間、各地で西洋の近代技術を用いた河川改修、港湾計画、砂防工事などを指導しました。淀川改修をはじめ、木曽三川、大阪築港、四日市築港など数多くの実績を残し、「日本の治水の恩人」と呼ばれています。
デ・レーケが製作した水制計画図(明治20年4月作成)
宇治川(観月橋~橋本)の水制・低水法線が赤線で記入されています。
デ・レーケ技術書の翻訳本
淀川の主な洪水(明治以降)
1885年(明治18) | 7月、台風豪雨による淀川大洪水(「明治大洪水」といわれ、淀川改良工事を行うきっかけとなった) 淀川左岸の枚方三矢堤、伊加賀堤のほか222箇所が決壊 |
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1896年(明治29) | 9月、台風豪雨による淀川大洪水 島本、鳥飼などで堤防が決壊し、淀川右岸地区一帯が氾濫 |
1917年(大正6) | 10月、台風豪雨による淀川大洪水(「大正大洪水」といわれ、淀川改修増補工事を行うきっかけとなった) 淀川右岸の大塚堤が200mにわたって決壊 |
1953年(昭和28) |
宇治川・向島の氾濫状況 宇治川左岸の向島堤が決壊 |
1959年(昭和34) | 8月に台風7号、9月に台風15号(伊勢湾台風)が襲来 木津川上流で大被害(淀川本川の被害は少なく、木津川上流地域での被害が非常に大きかった) |
1965年(昭和40) | 9月、台風豪雨による大洪水 天ヶ瀬ダムが竣工した直後であり、初の洪水調節によって淀川下流への影響を軽減した |
伏見付近における主な河川改修工事(明治中期以降)
1896年(明治29)~ 1910年(明治43) |
淀川改良工事
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1918年(大正7)~ 1933年(昭和8) |
淀川改修増補工事
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1939年(昭和14)~ 1954年(昭和29) |
淀川修補工事
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1954年(昭和29)~ | 淀川改修工事
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治水に関する三栖閘門の役割
治水に関する三栖閘門の役割
三栖閘門はもともと大正大洪水をきっかけに建設された施設であり、船の通航だけでなく治水施設としても重要な役割を担っていました。閘門としての機能を失った現在も、堤防として重要なはたらきをしています。
三栖閘門はもともと大正大洪水をきっかけに建設された施設であり、船の通航だけでなく治水施設としても重要な役割を担っていました。閘門としての機能を失った現在も、堤防として重要なはたらきをしています。