淀川河川事務所

昭和以降の利水、利用、環境等の取り組み

昭和以降、淀川流域では治水の取り組みに加え、淀川流域の都市化、人口の増加、工業の進展等により水利用の取り組みが拡大し、淀川は上水、工業用水、農業用水等の水源として広く活用されています。また、淀川の水質を改善する取り組みや河川敷を公園として活用する取り組みも行われています。

水道や発電など淀川の水利用の始まりと拡大

淀川の水は古くから農業などに利用されてきましたが、明治以降の産業発展とともに、安定的かつ効率的に大量の水を利用する必要性が生じました。京都では、琵琶湖の水を京都市に引く水路「琵琶湖第1疏水(明治23年)・第2疏水(明治45年)」が完成し、水道、発電、舟運に利用されるようになりました。

明治中期の大阪では、人々の生活用水の確保、伝染病の防止、火災への対応といった課題に応えるため、上水道の必要性が高まりました。このため明治28年に、淀川の水を水源とした給水人口61万人の上水道が開業しました。また、昭和に入ると製造業の拡大とともに工場による地下水のくみ上げが増加し、地盤沈下の問題が発生したため、昭和29年に淀川を水源とする大阪市の工業用水道が整備されました。

淀川の水は、古くから農業用水に利用され、堤防には多くの農業用水の取水口が設置されていました。しかし、これらが老朽化すると堤防の安全性が低下するため、昭和9年に淀川左岸の堤防にあった多くの取水口を一箇所に統合し、管理を一元化しました。

高度成長期を支えるため実施された淀川の総合開発

昭和初期、大阪市を中心とする産業の発展は続き、水道用水や工業用水などの水需要が増大したため、昭和18年から昭和27年にかけて淀川河水統制第一期事業が実施されました。この事業は琵琶湖周辺地域の洪水対策とともに下流地域の水需要の増加に対応するため、明治以来、洪水対策として続けられていた琵琶湖からの放流を利水のためにも使用するという画期的なものでした。

昭和37年、水資源開発促進法が施行され、将来の水需要を予測し、それに基づく供給目標や必要なダム等の建設計画を示した「水資源開発基本計画」(通称「フルプラン」)が策定されました。

淀川水系では、昭和46年に改訂された淀川水系工事実施基本計画と昭和47年に改訂された淀川水系水資源開発基本計画に基づき、必要な水源確保のためにダム等の整備が進められました。正蓮寺川利水事業、琵琶湖総合開発事業及び室生ダム(宇陀川)、一庫ダム(猪名川)、布目ダム(布目川)、比奈知ダム(名張川)等を建設するとともに大戸川ダム、天ヶ瀬ダム再開発(宇治川)、川上ダム(前深瀬川)等の検討が進められてきました。淀川水系工事実施基本計画は河川の保全と利用に関する方針を定めた総合的な計画であり、これらのダムの多くは、治水や利水などの複数の目的を持つ多目的ダムとして整備・計画されました。

淀川大堰

大川(旧淀川)に流れる水を一定以上に保つため、大正3年長柄起伏堰が建設され、昭和10年には、長柄可動堰へ改築されました。

淀川大堰は、この長柄可動堰の機能を継承し、上水道・工業用水道の水源の確保、柴島浄水場や阪神水道取水口の塩水混入の防止等を目的として建設され、昭和58年に完成しました。淀川大堰では、大川などの大阪市内の川の水質改善・浄化のために、一日のうちに水量を増減させて放流することによって滞留していた汚水を大阪湾に流して水質汚濁を改善する放流操作(フラッシュ放流)を行っています。

急速に悪化した水質とその改善の取り組み

淀川の水質は、生活排水や工場排水などが原因となって、昭和30年代から急速に悪化しました。このため、水質保全法などの法律が整備され、水域ごとに設けた環境基準に沿って河川の水質を測定し、工場排水などの規制を強化しました。昭和33年からは国、府県、流域市、関係団体により淀川水質汚濁防止連絡協議会が設立され、水質に関する問題を総合的に協議する取り組みが行われています。

また、昭和40年代以降、下水道整備も進められ、住宅からの排水が浄化処理されるようになりました。この結果、水質の悪化は食い止められ、一部の水域を除いて環境基準をクリアするまでに水質が回復しました。

都市公園へのニーズの高まりと淀川河川公園事業

国民生活における余暇時間の増大、レクリエーションの多様化を背景に、淀川河川公園事業が昭和47年に着手されました。当時は、東京オリンピックを契機とした「国民の体力づくり」への要望が高まる一方で、都市の市街化が急速に進展し、緑地や自然が減少するなか、公園が不足していました。

淀川では、河道の掘削とダム等の洪水調節によって、河川敷(高水敷)がほとんど冠水しなくなったため、河川敷を公園として活用する計画が立てられました。現在、淀川河川公園は周辺の住民にとっての憩いの場、自然とのふれあいの場として貴重な空間となっており、 年間500万人以上の人々に利用されています。

上下流の治水・利水・環境に貢献した総合的な取り組み:琵琶湖総合開発事業

昭和47年から平成9年までの25年の歳月をかけて、淀川水系における特徴的な事業である琵琶湖総合開発事業が行われました。その目的は、琵琶湖の自然環境の保全と水質の回復を図り(保全対策)、琵琶湖周辺などの洪水被害を軽減し(治水対策)、琵琶湖の水を有効に利用する(利水対策)というものでした。

この事業により、40m3/sの水資源が新たに利用可能となりました。また、琵琶湖沿岸での湖岸堤の整備、瀬田川浚渫などにより琵琶湖沿岸の治水安全度が高まりました。琵琶湖の水質改善が進み、新たに利用可能となった水資源は、下流の大阪府や阪神間の上水道の水源として活用され、下流域の発展に貢献してきました。

水防団

水防団とは、洪水時に水防活動を行う住民の自主的な組織です。洪水時に水が堤防を越える恐れがないか、堤防からの漏水によって壊れそうなところがないかを点検したり、土のうによる補強を実施して、水害防止にあたります。また、普段から堤防を点検し、危険な箇所を河川管理者に報告しています。淀川でも水防団に相当する組織が古くからありましたが、現在のような組織は大正8年に淀川左岸水害予防組合が結成されたのがその始まりです。一時は、団員が1万人を越える時期もありましたが、近年は、水防団員の高齢化や担い手不足などの問題を抱えています。

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